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陰のもの

突然ですが、僕は世の中で言われるところのネガティブっていう方の部類に属される方かもしれません。

別に常に死にたいとか考えていたり、世の中の全員をぶっ殺したいとか常に考えていたりとかそういう過激派な意味とかではなく、この言葉を僕が今発したのは相手がこういう気持ちだと思ってたけど、もしかしたら全く違ったらどうしよう、とか、今自分自身が用意している全て諸々ダメになっちゃったらどうしよう、今僕はみんなの事を考えたらどう動いたらいいんだろうとか、そういうなんか細かい類のほうのやつです。

とか言っといてなんだお前は、って思われるかもしれませんが、僕はこういう類の考えすぎてしまうことをネガティブだとか思ったことはありません。

むしろ丁寧に自身を形成するにあたって非常に大事なことだと思っています。

『自身を形成する』とかいうとすごいカッコいい事言ってる風に聞こえますが(本当は『自身を形成して自信をつける』と書こうとしたのですが余りにも西尾維新過ぎるのでやめました)どっちかっていうと誰しもがもっているプライド(誇り)を守る為に僕なりに考えて作られた自分の防衛手段のような気がします。

もっと言葉を単純にすると『傷つきたくないから』なんだと思います。自分が傷つかない為にあがくことは非常に大事なことだと思います。自分が傷ついて良い事なんてあまりにも少ないと思うからです。

ただ傷つかないで生きるってのはとても難しいです。僕はそれを死ぬほど色んな傷つき方をして回避の方法を一つ一つ学んでいきました。まだまだ傷ついていくと思います。典型的な『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』の愚者サイドの生き方です。

嘘をみんなでつこう、とか、人を蹴落として自分が安全な位置に常にいよう、とかそういう話に聞こえてしまったらすみません。

違います。

人を犠牲にして得られる良い事なんてあまりにも中身のないものです。やったことありませんが多分パチンコで一発大当たりを当てる、とか、麻薬めっちゃ気持ちい、とかとおんなじ感覚だと思います。道徳的な話ではありません、単純に世の中を全体的にみたら『そういう事をする人はそういう人』として世間に認識されるのは遅かれ早かれ時間の問題だからです。その人が長く生きれば生きるほど損するようにできている気がするからです。『目の前の人を大事にしましょう』とか『みんなにやさしくしましょう』とかそういう学校教育で死ぬほど聞いてきたかのような言葉には一言ずっと足りないと思っています。『自分の為に』という一言が。『目の前の人を大事にしましょう、自分の為に』、『みんなにやさしくしましょう、自分の為に』。

生きてれば傷はいやでもつくと思います。

傷つかないために何をするべきか、それは『誠心誠意、他人を疑い、他人と生きる』ことなんじゃないかって思います。僕は。

人は信頼をすると、本当にあったかい信頼を返してくれるんです。僕も最近そのことを改めて考えてみて、なんだかとてもほっこり涙が出そうな気持になりましたが。たぶん今更なんですが、人間の世界はずっとこうやって愛と信頼ありきで回ってきたんだろうなってしみじみと思ってしまいました。

めちゃめちゃアンパンマンとか瀬戸内寂聴とかが言いそうな文になってしまいましたが、要は『人を信頼するために疑う』ってことです。

その人を疑っている過程でその人がどういう人なのか見えてくると思います。そして、その人の考えを一生懸命自分なりに理解するように頑張るんです。その人が明らかにこっちをナメてたり(突然のヤンキー)見下しているな、利用するだけしようとしているな、ってのがすごく伝わってきたら携わるのを一瞬でやめちゃった方がいいです。一緒に頑張っている時間が本当に無駄だからです。携わっているみんなで見ている景色が違い過ぎるからです。かといってこっちも相手を見下したりナメ腐ったりしてはいけません。相手と同じ土俵に立ってしまうからです。かわいそうな人だ、ぐらいに軽く考えておきましょう。

そういう色々人を割り振りしたり、考えちゃうことを僕はネガティブだとは思いません。人を人として大事に扱うために人は考えすぎて、戦って、泥臭く生きて世界は成り立ってるんです。と思いたいんです。

 

だから僕は今日も人を疑います。

日常  2020/07/26  takahashi louie
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